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エロティシズム文学の奇書、あるいは文学的ポルノグラフィー(by澁澤龍彦)、「閉ざされた城の中で語るイギリス人」の作者は、既にシュールなイメージの小説家として名を成していた。にもかかわらず、彼はこの作品の初版を匿名で秘密出版した。秘密というと何やら怪しげだが、ある種の官能的な刺激を期待するエロ文学愛好家を遠ざけるような独特の雰囲気を、この作品は持っている。超現実的空間の中に放たれた残虐なエロティシズム――それは、肉のアナグラムともいうべき洗練された性の夢想を与えてくれる。
『できるだけ残酷で破廉恥で、それが最後まで一貫しているような物語、悪の原理に対する和解の接吻ででもあるかのような物語、すばらしいミルトンに淵源する魔王(サタン)の美しさが魅力的に描かれているような物語、そういうエロティックな物語を私は書きたいと思ったのである』――A.ピエール・ド・マンディアルグ
――STORY――
「私」は、ふとしたことで知りあったイギリス人のモンキュ(自国を嫌ってフランス名を使っている)の城に招かれ、そこで繰り広げられる異様な性の饗宴を体験する。モンキュは並大抵のことでは興奮しなくなっていて、あらゆる実験を試みる。最初は面白がっていた「私」も、だんだん彼が恐ろしくなって逃げ出してしまう。後日、城が爆発して跡形もなく消えてしまったという知らせが届いて…「私」は、何もかもふっ飛ばしてしまった最後の「射精」に、あらゆる手段をもってしても満足を得られなくなったモンキュの姿を思うのであった・・・
こんなにも短くまとめられるほどの単純なストーリーだが、この作品を読む上で筋は問題ではないだろう。「性の饗宴」と書いたが、これも適切な言葉ではないかもしれない。ローマ帝国のそれのような狂気じみたパワーはなく、むしろ陰湿な性の儀式といったほうが近いだろう。
たとえば、たくさんの蛸が蠢く水槽の中に少女を投げ込み、体中に軟体動物を貼りつけた処女の肉を味わうといった設定。ちぎれたレースや絹、血と蛸のスミ、砂と塩水の入り混じった世界。少女の顔面に貼りついた蛸は醜悪な仮面を連想させる。
たとえば、巨大な氷細工の男根を、料理番の女の輝く肛門に挿入、内臓へと続く粘膜を弄る試み。
他にも、ブルドッグとの人獣交媾、ユダヤ人にドイツ軍人の睾丸を噛みちぎらせたり、ビクトリア女王を会話の中で辱めるといったシニカルなエピソードもある。
「城の中のイギリス人」の世界は、昆虫採集が好きな子供の世界にも似ている。悪趣味でおぞましい光景が、とてつもなく美しく感じられる瞬間というのがあると思う。世紀末のデカダンたちが癩(らい)病患者の皮膚にひろがる傷口を美しい薔薇にみたてたように、モンキュの、死と隣り合わせた肉の倒錯世界に美を見出す読者もいるはずだ。凌辱して死に至らしめるといったサディスティックな繰り返しは、バタイユの有名な言葉を思い起こさせる。すなわち「快楽と拷問(苦痛)は同義語なのである」と。
ところで、モンキュの城周辺の地名「Saint-Quoi-de-Vit」は、「聖男根」といった意味だ(架空の地名、念のため)。デカダン愛好家に人気の高い古代ローマのヘリオガバルス帝は、バール神の陽物像を尊崇していて、美しく巨大な男根所持者を熱心に探させたという。アレクサンドリアから医者を呼び寄せ、自分の下腹部に女陰を刻ませたのも、その愛するものを受け入れるために必然の行為だったのかもしれない。
モンキュはまさに、「Saint-Quoi-de-Vit」の持ち主である。
『・・・何よりも驚くべきは、このペニスの下の亀頭から陰嚢までのあいだに垂れ下がっている、薔薇色と紫色の斑になった、ある種の蜥蜴の肉垂れのような鋸歯状の皮膜だった・・・』――「城の中のイギリス人」より
この描写から、「悪魔」という言葉が連想される。黒魔術に関する本によれば、悪魔のものもやはり巨大で、爬虫類の膚のようにささくれだっており、熱く燃えているという。選ばれた娘は、苦痛のために気を失うか、死ぬか。もちろん股間は血にまみれ、完全に破壊されることになる。
ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」で、リーガンが局所に突き立てた十字架は、もっと大きくなければならなかったし、ロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」の交媾シーンは、もっともっとエロティックに撮られなければならなかったと、この作品を読んだ後では思う。もっとも、ポランスキーもローズマリーを撮らなければ、シャロン・テートを失うこともなかっただろう。「ヘルター・スケルター」とローズマリーをトレードにしていたチャールズ・マンソン一家は、テート事件以前にも、絶頂の瞬間にセックス・パートナーを撃ち殺すという快楽の奥義を実践していたという。彼らの実録映画において、そのときの様子を話すメンバーの女性などは、カメラの前で、あたかも死まで高められたオルガスムスを味わっているかのように見えた。
快楽のあとには、死が、手ぐすねひいて待っているのであろうか。「カリギュラ」で知られるティント・ブラス監督の「サロン・キティ」は、「城の中のイギリス人」が下敷きであるかのように、性の実験を繰り返すナチスの若き将校が主人公である。ヘルムート・バーガー演じる主人公を待っているのも「死」ほかならない。
「城の中のイギリス人」を読み終えたとき、私はポオに影響を受けたと思われる谷崎潤一郎、江戸川乱歩の作品を思い起こしていた。東西混淆の理想郷で「金色の死」を遂げた青年の、また狂気じみた夢の「パノラマ島」で肉の切れはしと化した男の、ナルシスティックな最期が、モンキュのそれと重なってゆく。重なるけれども、どちらかといえば私には「城の中のイギリス人」の残酷なエロティシズムよりも、谷崎や乱歩の西洋かぶれなグラン・ギニョル趣味のほうが、理解しやすい。それは、「城の中のイギリス人」には独特のキリスト教観が漂っているからかもしれない。
『残酷なエロティシズムにふくらんだ夢想は、記述におけるとはいわないまでも、空想における一種の目まいに人を導くのだ。人はその目まいの運動を速めて、その結果が無意識のモラルの復讐となる場合もあるような、或る破滅的な帰結にまで到達しようとする。私の内部にも、或る種の色情狂と或る種のキリスト教徒精神とが奇妙な混合を形づくっている。二つの構成要素は互いに相手を刺激し合いながら、それでも予想されるほどには目立たない対照を示している。私たちの大部分が心の底に隠している地下室では、ひそかにサド・マゾヒズムが、救済と堕地獄の精神的な婚礼を祝う篝火を掻き立てている・・・』――A.ピエール・ド・マンディアルグ
マンディアルグはこの作品で、キリストの愛である「アガペー」に対するところの「エロス」を描き出そうと試みただけなのかもしれない。物語の最後にポツンと出てくるモンキュの言葉が、私にふと、そんなことを考えさせた。『エロスは黒い神なのです』
(1991年脱稿)
アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
Andrリ Pieyre de Mandiargues
1909年パリに生まれる。
大学では考古学を専攻。ドイツ・ロマン派、エリザベス朝の詩や演劇、バロック文学、ロートレアモンやシュルレアリスムに熱中し、1934年より詩を書きはじめた。考古学的興味からヨーロッパ各地、地中海沿岸を旅してまわるが、第二次世界大戦中はモナコに避難して執筆に励む。戦後はパリにもどり、詩、小説、評論、戯曲とその活動の領域をひろげる。
三島由紀夫の「サド侯爵夫人」を仏訳し、その日本上演に際して1979年に来日。
夫人のボナはイタリア人で、シュールで幻想的な作風の画家として人気が高い。
1991年死去。
書名 | 訳者 | 出版社 |
「オートバイ」 | 生田耕作 | 白水社 |
「城の中のイギリス人」 | 澁澤龍彦 | 白水社 |
「狼の太陽」 | 生田耕作 | 白水社 |
「黒い美術館」 | 生田耕作 | 白水社 |
「燠火(おきび)」 | 生田耕作 | 白水社 |
「海の百合」 | 品田一良 | 河出書房新社 |
「大理石」 | 澁澤龍彦 高橋たか子 |
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