VAMP NECROPHILIA ANOTHER SEXUALITY
⇒HOME | ANTHOLOGY | LINK | PROFILE | BBS
 CINEMA LITERATURE COMIC DRACONIA MYTHOLOGY 

金色の死

谷崎潤一郎のユートピア小説について


もっとも貴い芸術品は人間の肉体。芸術はまず自己の肉体を美にすることより始まる           
(「金色の死」より)

 
 「アルンハイムの地所」(エドガー・アラン・ポオ)のエリソン、「金色の死」(谷崎潤一郎)の岡村君、「パノラマ島奇談」(江戸川乱歩)の人見広介。この三人は、莫大な財産と全生涯を自己の芸術思想「ユートピア建設」のためにだけ尽くして死んだ。「金色の死」は「アルンハイムの地所」の影響下に書かれたと思われるし、乱歩は「金色の死」に出会った喜びを自著の中で語っているし、もちろんそのペンネームや「パノラマ島奇談」本文中にアルンハイムの話が引用されていることを考えれば、この三作品が酷似していることは当然なのだが、私は、これらの狂気じみたユートピア小説の中では、「金色の死」が特に気に入っている。しかし、この作品は当の谷崎が自作品の中でもっとも嫌ったもので、没後初めて全集に収録されたらしい。確かに、形式美と構成力においては完璧だった後年の谷崎作品と比べると、この作品の矛盾した芸術論や東西ごちゃまぜのグラン・ギニョル的な、いわゆる俗悪趣味は、彼にとって許しがたいものだったのかもしれないが、初期の幻想的な「魔術師」やらゲテモノ趣味の「美食倶楽部」やらが好みである私にとっては、むしろ後期の純文学然とした谷崎作品のほうが退屈でならない。

 「金色の死」は、主人公「私」の少年時代からの友人、岡村君の独断的な芸術観による唯美人生を描いた物語である。岡村君は、莫大な財産と太陽神アポロンのような容姿に恵まれ、自己の芸術思想をすべて体現した理想郷を建設し「金色の死」を遂げてしまう。「アルンハイムの地所」も、莫大な財産を得た青年エリソンが、常日頃から抱いていた「自然」への不満を、「造園」こそは詩人に最大の機会を与えるものだと、風景に「人工」を織りまぜて、自然を矯正することによって自らの芸術を貫いた物語で、その語り口は美しく緻密で、ポオ特有の冷たく静かな空気が行間に流れている。だが、彼の死に方が特筆すべきでなかったこと、それにユートピアたる庭園が贅沢だが統一された美学によってかためられていたことが、どうもまとまりがありすぎて品が良すぎて私の趣味には少し合わない。「パノラマ島奇談」については、肉の花火と化す男の最期と、陰気な見世物小屋やサーカスのような人工島の仕掛けには心惹かれるものがあるし、取って付けたような推理さえなければと思うが、乱歩ならむしろ、狂気の大博覧会「地獄風景」の、ゴールが刃物のテープで一等賞は真っ二つという恐怖の徒競走や、人間駒を使った血みどろの大砲遊びなどを楽しんだ主人公が、気球で上昇するときの笑顔が明るくていい。「金色の死」の岡村君にも一種の明るさが感じられるが、それは快楽のために殺人を犯すような「地獄風景」の主人公とは違い、死ぬほど遊び続けるような、好きなものをすべて手中におさめないと気がすまない幼児のような、イノセントな明るさなのだ。

 パルテノン神殿と鳳凰殿が並ぶ古今東西の様式の枠を集めた建造物、異国の禽獣、とりどりの植物、生きた彫像、ケンタウロス、人魚、湯の代わりに肉体で満たされたローマ風呂、肉の寝台(「家畜人ヤプー」の肉の便器にはかなわないが)、ニジンスキーを演出したレオン・バクストさながらの衣装をとっかえひっかえの大饗宴。最期には、満身に金箔を塗りたくって如来を演じて踊り狂い、翌朝には美しい金色の屍体と化した岡村君。主人公である「私」は、こんなに明るく荘厳な、悲哀のひとかけらもまじらない人間の死を見たことがないと思った。小説家として一応の成功をおさめていた「私」は、めちゃくちゃな芸術論を唱え、快楽ばかりに耽っている岡村君を内心軽蔑していたのであるが、その死に際して初めて、自己のすべてを挙げて自己の芸術のためだけに突き進んだ彼を、偉大な芸術家であったと認め、羨みさえするのである。

 岡村君の大正時代における「ユートピア」を現代に再現してみると、おそらく俗悪なパノラマ遊園地、趣味の悪いからくり屋敷、または悲しくなるような努力がみられるローカルな公園くらいだろうか。全身に金箔をほどこしたり、ケンタウロスの真似事をしたりも、現代ではお笑いタレントがゲームの中で演じているくらいだし、一時話題になったボディ・ペインティングにしても、芸術として捉えられているかどうかは疑問である。しかし、世間には無用で無意味な自分だけの芸術を、マニアックに破壊的にまでやり遂げた彼の、実は厭世主義と隣合わせだったかもしれない快楽主義を、私は愛さずにはいられない。岡村君ほどの財産が私にあったならば、彼と似たようなユートピア建設をきっと試みただろうから。

 「金色の死」について、「官能的創造の極致は自己の美的な死にしかない。この作品を否定した谷崎は、決して自殺をしないだろう」と語った三島由紀夫。彼は自己の死を「美しく演じられた」と最期に思っただろうか・・・


(1983年脱稿)
「金色の死」 新潮日本文学 谷崎潤一郎集に収録
戻る