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Dance Collection
映画の中のダンス⇒リストへ
by 「黒死館徘徊録」の素天堂さん
ちょっと昔のことですが、ドイツの男性歌手TACOの歌で「踊るリッツの夜」という曲がヒットしたことがあります。妙に滑舌のいい、ノスタルジックな曲調が不思議なイメージを醸し出していました。
その曲が大昔のリヴァイバルであることは知っていましたが、先日あるTV番組で「クラーク・ゲイブル」の回顧が放送されたとき、何とクラーク・ゲイブルがその歌を歌っているではありませんか。確か「ザッツ・エンターテインメント」という、MGMの回顧アンソロジーで、アニメの猫、トムなどと一括りで、”こんな人もミュージカルに”のコーナーで紹介されていました。オリジナルはあの、フレッド・アステアだそうですが覚えがありません。だからどうだと言うところで、いわゆるミュージカルやバレエ、舞踏が主題の音楽映画でない一般の作品の中で印象に残ったダンスシーンをピックアップしてみました。


LIST

ダウンタウン物語(1976)
監督:アラン・パーカー 才人ポール・ウィリアムズのミュージカル・ナンバーによるタルーラとブラウジーの華やかな歌姫のショウも楽しいが、クラブ閉店後の、この映画の通奏低音になる、ピアノ弾きの黒人少年のちょっと悲しい歌と少女のダンスがすばらしい。

少女コレクション
音楽:ポール・ウィリアムス
出演:スコット・バイオ、ジョディ・フォスター、フロリー・ダガー、ジョン・カッシージ、マーティン・レブ、ポール・マーフィ、ハンプティ・アルビン・ジェンキンス
山猫(1963)
監督:ルキノ・ヴィスコンティ 旧体制の代表バート・ランカスターと新体制の代表クラウディア・カルディナーレの踊る堂々としたワルツ、疲弊した旧体制の精一杯の虚勢と上流階級の娘たちの冷たい視線をものともしない、溌剌としたカルディナーレに対する侯爵の苦みを伴う視線は痛々しい。
アラン・ドロン、ジュリアーノ・ジェンマを始めとするヴィスコンティ・美青年コレクションとも言える、この作品のハイライトとしてのこの舞踏会は、映画というメディアを自分の階級への反抗ではじめた彼の青年期を振り返りはじめたヴィスコンティ自身の転回点だったのだろうか。
出演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ
ダウン・バイ・ロー(1986)
監督:ジム・ジャームッシュ 初期のジャームッシュにあった、移民へのやさしいまなざしが感じられる、殆ど英語もしゃべれないくせにおしゃべりな、絶品イタリア移民ロベルト・ベニーニと、客もいない山奥に残された叔父の遺産にすむイタリアから移住してきた娘との寂しいダンス、曲はアーマ・トーマスの「It's raining」。ジャームッシュは50年代のブラック・ミュージックがお好みのようで、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」でもスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの「I putta spell on you」がなぜか基調音になっていた。(これが話題になったおかげで、素天堂は彼の素敵なコンサートを観ることが出来ました。)アメリカ人二人を含む彼らの、アウト・ローと呼ぶにはあまりにもだらしない落ちこぼれが、なんだか素晴らしく見えてしまうのは、自分がその仲間だからだろうか。
出演:トム・ウェイツ、ジョン・ルーリー、ロベルト・ベニーニ
バレンチノ(1977)
監督:ケン・ラッセル 華やかなはずの映画初期の大スター、ルドルフ・バレンチノの生涯を描きながら、終始皮肉と哄笑で包まれたいかにもケン・ラッセルらしい派手派手な作品。ニジンスキーとの男同士なのに(だから?)妙に色っぽいタンゴ「黒い瞳」のダンスシーンは、その印象の強さから後半の重要な場面だと思いこんでいたが、見直したら思ったより最初のほうで取り上げられていた。もっとも、これが後々の流れの重要なキーになっているのだから当然だろう。もちろんダンサー上がりのバレンチノに扮するヌレエフの、酔っぱらいパートナーとの超絶技巧も見物でした。
出演:ルドルフ・ヌレエフ、レスリー・キャロン、ミシェル・フィリップス、キャロル・ケイン、シーモア・カッセル
暗殺の森(1970)
監督:ベルナルド・ベルトルッチ 国内統一後のイタリア、愛国主義の行き過ぎからファシズムの嵐が吹き荒れた時代を描いた、暗いけれど美しい映画。心に傷を持つ暗殺者とそれを知らない資産家令嬢の婚約者との、奇妙なパリ旅行。そして息詰まる暗殺者J.L.トランティニアンとそのターゲットとの心理劇の裏でくり広げられる、彼らの婚約者同士の奇妙な友情は、肉感的で柔らかなステファニア・サンドレッリと、バレエで鍛えられ(彼女はバレエ教師)引き締まったドミニク・サンダの女同士の情熱的なダンスでブローニュの森のクラブでの一夜は最高潮に達する。そこから一転、翌日は邦題どおりの、冬の森の中の地獄絵になって、さらにファシストたちの戦後での見苦しい保身へと話は続くのだが、あのパリの森の中、幻影のような女同士のダンスは古き良き?時代の象徴でもあったのだろうか。
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ、ピエール・クレマンティ
愛の嵐(1973)
監督:リリアーナ・カヴァーニ ファシズムと言えばもう一本。収容所の中で結ばれた因縁が戦後のウィーンで、突然燃え上がる、この恋物語はサディズムとマゾヒズムの混濁の中でねじれるように繰り広げられていく。SSの将校たちの倒錯したパーティーで踊らされる、ひとりの少女にあたえられた「サロメ」の役が残す大きな傷。シャーロット・ランプリングの年齢不詳の魅力がこの映画の重要なキーになるだろう。さらに、余興で踊るSSダンサー・ハンスの、戦前ヨーロッパを風靡したオイリュトミーといわれた正統的なダンス(それは戦後になってジャズダンスとしてさらに隆盛する)でありながら、奇妙に健康おたくっぽい同性愛的な将校同士のつながり。それはナチスの頽廃を描いた、ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者たち」のヘルムート・バーガーのわざと美しくない悪意のこもったマレーネ・ディートリヒの仮装や「サロン・キティ」のもっとも悲劇的なエピソード、副総統のヒトラーに寄せる醜悪な恋慕に巻き込まれた娼婦の話などに結びつくだろうか。
出演:ダーク・ボガード、シャーロット・ランプリング、フィリップ・ルロワ、イザ・ミランダ、ガブリエル・フェルゼッティ
奇跡の丘(1964)
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ シャーロット・ランプリングの惨めで美しい踊りを聖書の物語と強弁するなら、こちらは正真正銘マタイ伝からの「サロメ」。コミュニスト・パゾリーニによる、ハリウッド調のキラキラした原色をそぎ取って、「アポロンの地獄」以来のギリシャ悲劇風の作劇術で創りあげたキリストの伝記。クローズアップの多用とギリギリまで制限されたセリフの緊張感は、ギリシャの仮面劇のように、本来、福音書が持っている研ぎ澄まされたサスペンスを描き出す。その中で唯一“彩り”がヘロデの娘「サロメ」のダンスシーンだ。モローやワイルドで第一印象が出来ていた自分にとって、民俗的なパゾリーニの演出にはぶっ飛んだものでしたが。今見直してみると、サロメ役の少女の可憐だが意志的な表情と、その民俗的な演出がかえって美しかった。そうだ「サロメ」つながりで言えばケン・ラッセルのうぶなくせに肉感的な「サロメ」もすきなんだけどなぁ。いやらしくて。

パゾリーニのページ
出演:エンリケ・イラゾクイ、マルゲリータ・カルーゾ、スザンナ・パゾリーニ、マルチェロ・モランテ、マリオ・ソクラテ
吸血鬼(1967)
監督:ロマン・ポランスキー 正統的な吸血鬼映画の骨格をユーモアにくるまれた悪意で埋めた異色作。それをさらに強調するかのような中欧風の、ハリウッド映画とは異質の色感。それをもっとも感じられるのが深夜の舞踏会のシーンだった。ヴァンパイア一族が寄り集う中に交わる異人種は、彼らのみが広間の大鏡に移ることで露見する。美しいシャロン・テートの最後の瞬間だった。彼女は世界に広まる悪の象徴だったのである。

ポランスキーのページ
出演:ロマン・ポランスキー、ジャック・マッゴーラン、シャロン・テート、アルフィー・バス
日曜はダメよ(1960)
監督:ジュールス・ダッシン 現代ギリシャ人はその民族のアイデンティティーを音楽とダンスに置いてるようだ。大昔に見たTVコメディー・シリーズ「ルーシー・ショー」でもふだんは内気なのに、ギリシャ音楽を聴くと人格の変わる小男のエピソードがあった。
この映画でもギリシャの港町で繰り広げられる気のいい娼婦と町の男たちのコメディー。その冒頭、みんな行きつけの居酒屋での男たちのダンスは、みごと。監督ジュールス・ダッシン扮するギリシャ移民の子孫でインテリのアメリカ人は、みごとなダンスにつられて拍手をして男たちに袋だたきにあう。彼らに言わせると彼らのダンスは、自分自身のために踊るのだそうだ。それを仲裁したメリナ・メルクーリ(ダッシンの奥さん、のちにギリシャ共和国文化大臣)の娼婦とアメリカ人は意気投合するが、どうしてもその博愛主義がアメリカ的な彼の心情と相容れず、ちょっかい
を出してトラブルを起こす。最後には仲直りして、アメリカ人が国へ帰るまでのあれこれの中で、メリナの歌い踊る「日曜はダメよ」の悲しいすばらしさ。
出演:メリナ・メルクーリ、ジュールス・ダッシン、ジョージ・ファウンダース
髪結いの亭主(1990)
監督:パトリス・ルコント 少年の心の妄執をそのまま人生に仕立てられた幸せな人間の悲劇。念願かなって髪結いの亭主になれたその瞬間に、飛び込んできた客の鬚を剃る花嫁衣装はある意味わいせつでさえある。愛するという、男の利己的な心情に極限まで包まれながら、限りな
い不安にさいなまれる床屋の女主人は、究極の幸福感を自ら断つことによって永遠に封じ込め、その亭主は永遠にその帰りを待つ。
何度誘っても妻は見るだけだった、ジャン・ロシュフォールの奇妙なアラブ風の踊りは、意味を持たないだけにかえって強烈な印象を残す。パトリス・ルコントの主人公は何時も男で少年だけれど、この作品ではその願望がもっとも生々しく現れているのかもしれない。
出演:ジャン・ロシュフォール、アンナ・ガリエナ、ロラン・ベルタン
空中レヴュー時代(1933)
監督:ソーントン・フリーランド 監督の名前も知らない30年代のプログラム・ピクチャーだが、コンチネンタル・タンゴの名曲「月下の蘭」と、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース最初のコンビにして10分を超す記念碑的大作「キャリオカ」、さらに飛行機が一般的になりかけの頃、それを題材にとりあげた映画として、大好きな映画の一つです。本来音楽がテーマの作品は取り上げないつもりだったのですが、本当に、これと後二本は別。影のある作品を取り上げがちの素天堂ですが、これだけは本当に脳天気映画です。どうか機会があったら見てください。
「キャリオカ」その演出と彼らの踊りのすばらしさはその後アステア・ロジャースの名コンビによるダンス映画シリーズを量産することになったのですから。「FLY DOWN TO RIO」の原題のとおり舞台はリオ・デ・ジャネイロなのに「キャリオカ」はルンバじゃないかなどといわないように、当時の地理的認識なんてそんなものなんですから。
出演:ドロレス・デル・リオ、ジンジャー・ロジャース、フレッド・アステア、ジーン・レイモンド
会議は踊る(1931)
監督:エリック・シャレル 30年代のもう一つの名作。アメリカ映画とはひと味違うドイツ(オーストリア)の、しゃれた音楽映画。「唯一度だけ」と「新酒の歌」の曲に乗って進む、ロシア皇帝と手袋売りの娘のおとぎ話のような恋物語。
主人公リリアン・ハーヴェイが皇帝のお召しで別荘へ向かう馬車の中で歌う長い長い「唯一度だけ」の幸福感。別荘について今まで寝たこともないであろうフカフカのベッドで二度、三度繰り返す奔放な尻餅のすばらしさは、当時の小説家 小栗虫太郎もエッセイで書いているくらい。だからこそ国に帰る皇帝を送りながらきく、酒場の楽士歌う同じ歌の悲しさはひとしおです。さらに、そのちょっと前、真っ盛りの舞踏場に駆けつけた、傷だらけの伝令のもたらしたナポレオン上陸の知らせにさっとひいた群衆の後、広い舞踏場にたたずむ策士メッテルニヒの孤独な姿。頽廃とはこういうものだと、東洋の小国の貧乏人に思い知らせてくれるシーンでした。
出演:ヴィリー・フリッチ、リリアン・ハーヴェイ、コンラート・ファイト、リル・ダゴファー
未完成交響楽(1933)
監督:ウィリ・フォルスト 音楽室の肖像画の中で唯一眼鏡をかけていた、シューベルトの伝記映画だと言われている作品。まぁ、いいでしょ・・・なフィクションなのですが、史上初めて映画にウィーン少年合唱団を登場させた功労者ですから許してあげてもいいかもしれない。音楽映画とはいいながら、実に地味な作りなのだが、「野ばら」が教室で誕生するシーンは、合唱団ファンなら見て損はないでしょう。で、大事なダンスシーンなのですが、名門「エステルハージ家」に音楽の家庭教師で住み込んだ、ハンガリーの村の居酒屋で煮え切らなく時間をつぶしているシューベルトの前で、ある女性がまことにみごとなチャルダッシュ・ダンスを踊るのですよ。それはマルタ・エッゲルト扮するエステルハージの娘カロリーネ。彼女は自分の恋心を先生のシューベルトに伝えるため、村娘に変装して夜の酒場に潜入してきて、さらに民族舞踏まで踊ってしまったわけです。茶化しはこれくらいにして、その後のアリアにもまごう心情あふれる「われに告げよ」の素晴らしさ、聞いて頂くほかありません。前の「唯一度だけ」と共に戦前の日本でも大ヒットしたそうですが納得できます。
出演:オットー・トレスラー、ハンス・ヤーライ、ルイーゼ・ウルリッヒ、マルタ・エゲルト
例によってへそ曲がりな、素天堂の自分勝手な「映画の中のダンス」でした。あれが入ってないじゃないか、というご意見もおありでしょうが、それは単に素天堂が見てないか、忘れているのだと思いますので、遠慮なくリクエストしてください。現に、こうやってまとめに入ってからフェリーニの「甘い生活(1959)」でのマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エグバーグの明け方の噴水でのダンスや「インテルヴィスタ(1987)」の優しい、懐古的な二人のダンスを思い出しました。考え直してリストに加えさせて頂くかもしれません。ちょっと、これだけではさみしいでしょ?
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