澁澤龍彦さんによせて
「僕は、たいてい日本人離れした人に惹かれる。しかし、その日本人離れしたところがあるということ自体、また非常に日本人的なのではないかと思っている」・・・これは、「あなたにとって日本的とは?」と聞かれたときの澁澤さんの答えである。海の向こうの暗黒面に思いを馳せた彼は、日本人離れした、まことに不思議な日本人であった。彼は、旅行が苦手だったというが、机の上では、いつでも好きなときに好きなところへ出かけていた。1970年に初めてヨーロッパを訪れるまでは、まだ見ぬ大陸へ夢を飛ばし、イメージ蒐集の旅を続けていた(手帖シリーズ、「夢の宇宙誌」など、私はこの時期の作品がとても気に入っている)。そして、実際にヨーロッパを訪れたあとは、なぜか今まで西洋ばかりに向けられていた目を日本へも向けるようになった。「思考の紋章学」の流れるような美しさ、そして秘密結社的な嗜好をフィクションの世界に解放し始めたこの時期を、「帰ってゆく旅」と呼んでいいかもしれない。そして、最期の旅となったのが、この「高丘親王航海記」である。
高丘親王は、平城天皇の第三皇子であったが、政変のため皇太子を廃され、出家し、空海のもとで密教を研究、64才で唐へ渡り、西暦875年、67才のときに二人の僧とともに広州から船で天竺へ向かい、そのまま消息を絶ったという。
澁澤さんの遺作となったこの物語は、一行が天竺へ向かうところから始まっている。父帝の寵姫、藤原薬子との、どこかエロティックな幼少期を織り込みながらも、全体的にサラリとした文体は、初期のエゴイスティックともいえるそれに比べると、驚くほど平易で、厭世観さえ漂わせている。
両性具有めいた子供と喋る儒艮(じゅごん)、下半身が単穴の女面鳥獣、夢を喰う獏と少女、犬頭の男たち、魔の海域の幽霊船、卵生の女たちなどなど、ここに描かれている世界は、過去に彼が愛し、綴ってきた博物学的な世界の縮図にほかならない。歴史書にはほんの少ししか登場しない人物を主人公にして、超現実的ミクロコスモスを展開させたこの作品を、本人は、自らナンセンス小説と言っていたが、私には、歴史書には載っていない高丘親王のもうひとつの真実に思えるのだ。
同時に、高丘親王は、もうひとりの澁澤さんでもある。時空を越えて、さまざまな不思議に出会う親王は、病床で、この作品を執筆していた彼のアンチポデスのように思えるのだ。コクトーやシュルレアリスムに出会って以来、ヨーロッパの芸術家や神秘家たちに、熱烈なオマージュを綴りつづけた澁澤さんは、薬子から寝物語に聞かされた、天竺という海の向こうのユートピアに憧れを抱きつづけた親王と、どこか似ていないだろうか。南洋の異郷を、少年のような身軽さで進む親王のイノセントな魂は、玩具や怪物を愛しつづけた澁澤さんのそれに重ならないだろうか。「高丘親王航海記」というミクロコスモスは、彼が執着した、胡桃の中の世界、はては貝殻や石の膚に拡がる世界にも通じているにちがいない。
この作品が単行本化されたとき、そのオビには「死の予感に満ちた」というコピーが刷られていた。事実、澁澤さんは、この単行本のすばらしい装丁や読売文学賞の授賞を知らずに逝ってしまったのであるが・・・最後の一年間、喉の悪性腫瘍は、彼から声を奪い取っていた。この物語にも最後のほうに、美しい大粒の真珠を手に入れた親王が、これを奪われそうになって、とっさに呑みこんでしまうが、その代償に声を失ってしまうというシーンがある。親王の従者が、「真珠のようにそれ自体で美しいものには、それだけ不吉な影がある」と主張するのに対し、「この世にあるかぎり美しいものは大いに愛すべきだ」というのが親王の胸のうちだった。病める貝の吐き出した美しい異物である真珠を選べば、死を避けることはできない。しかし、澁澤さんは高丘親王に「美」を選ばせたのだ。
私は、先にも述べたように、澁澤さんがヨーロッパを訪れるまでに書き綴った、好きなものにだけ捧げられた暗黒エッセイのファンであり、どちらかというと小説家としての面には魅力を感じていなかった。しかし、私は今、この「高丘親王航海記」の最後に、芸術至上主義ともいうべき、彼の唯美的な精神を再確認し、ヨロコビにふるえているのである。(1990年脱稿)
「高丘親王航海記」について
初出「文學界」
「儒艮」(「蟻塚」改題) 1985年 8月号
「蘭房」 1985年11月号
「獏園」 1986年 2月号
「蜜人」 1986年 5月号
「鏡湖」 1986年 8月号
「真珠」 1987年 3月号
「頻伽」 1987年 6月号
単行本 (文藝春秋刊) 1987年 10月
文庫 (文藝春秋刊) 1990年 10月