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『血と薔薇』宣言

『血と薔薇』宣言




1、本誌『血と薔薇』は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。


1、およそエロティシズムを抜きにした文化は、蒼ざめた貧血症の似而非文化でしかないことを痛感している私たちは、今日、わが国の文化界一般をおおっている衛生無害な教養主義や、思想的事大主義や、さてはテクノロジーに全面降伏した単純な楽天的な未来信仰に対して、この雑誌をば、ささやかな批判の具たらしめんとするものである。エロティシズムの見地に立てば、個体はつねに不連続であり、そこに連続の幻影を垣間見るにもせよ、一切は無から始めるのであり、未来は混沌とした地獄のヴィジョンでしか生まないであろう。


1、血とは、敵を峻別するものであると同時に、彼我を合一せしめるものであり、性を分化するものであると同時に、両性を融和せしめるものである。薔薇とは、この決して凝固しない血を流しつづける傷口にも似た、対立と融合におけるエロス的情況を象徴するものである。本来、エロスの運動は恣意的かつ偏在的であるから、エロティシズムは何ら体系や思想を志すものではないが、階級的・人種的その他、あらゆる文化対立を同一平面上に解体、均等化するものは、エロティシズムにほかならないと私たちは考える。


1、性を前にした笑いの本質を、私たちはジョルジュ・バタイユ氏にならって、恐怖のあらわれであると規定する。江戸時代以来、わが国の性は陰湿な笑いによって歪められてきた。本誌『血と薔薇』は、いわゆる艶笑的、風流滑稽的、猥談的、くすぐり的エロティシズムの一切を排除し、エロティシズムの真相をおおい隠す弱さの偏見を根絶やしにせんとするものである。


1、心理学の領域では、アプリオリに正常あるいは異常のレッテルを貼りつけるべき、何らの現実的根拠もないことを確信している私たちは、フロイト博士の功罪を正しく見きわめ、何よりもまず、コンプレックスという言葉にまつわりついた貶下的なニュアンスを取り払わんとするものである。また同様に、倒錯とか退行といった言葉も適当ではないと判断する。本誌『血と薔薇』によって、いわゆる倒錯者が、倒錯者として生きるための勇気を得ることになれば幸いである。私たちは、あらゆる倒錯者の快楽追求を是認し、インファンティリズム(退行性幼児性)を賛美する。


1、現在、わが国の文筆業者のうちで、刑法第百七十五条によって実害を蒙っている者が何人いるであろうか。司法権力との摩擦を生じたことさえ一度もなく、ただ口先だけで、お題目のように”表現の自由”を唱える観念的な進歩的文学者を、私たちは信用しない。オリンピア・プレス(アメリカ)やポーヴェール書店(フランス)が私たちにとって偉大な手本たり得るのは、検閲制度(念のために申し添えておくが、日本国憲法には制度としての検閲はない)の転覆という抽象的美名のために闘ったからではなく、むしろ不屈の意志によって、司法権力を刺激するような内容の書物をも敢えて次々に刊行したからである。原因と結果を取り違えてはいけない。(この項は、あらゆる政治状況の比喩としても読まれたい。)


1、最後に、本誌『血と薔薇』は、コンプレックスに悩む読者のためにはコンプレックスの解消を、またコンプレックスのあまりに少ない読者のためにはコンプレックスの新たな贈与を、微力をもって心がけんとするものであることを付言する。読者の大いなる共感と御支持を期待する。


一九六八年十月            編集者一同



『血と薔薇』創刊号P22より引用しています。
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