VAMP NECROPHILIA ANOTHER SEXUALITY
⇒HOME | ANTHOLOGY | LINK | PROFILE | BBS
 CINEMA LITERATURE COMIC DRACONIA MYTHOLOGY 
川端康成のネクロフィリア小説について
 Story
 眠れる美女の秘密の宿がある。若く美しい娘たちが強い薬で眠らされており、「安心できるお客さま」である老人たちが、彼女たちと添い寝をするためだけに宿を訪れる。主人公の江口老人は、若い娘の横で、自らの人生、そして自らの老醜さと死を思う。五度目に宿を訪れた夜、ふたりの娘と眠った彼は、黒いほうの娘が冷たくなっているのに気づいて女主人を呼んだ。
 「お客様は余計なお気遣いなさらないで、ゆっくりおやすみになっていて下さい。娘ももう一人おりますでしょう」
 娘がもう一人いるという言い方ほど、江口老人を刺したものはなかった。いかにも、隣室のとこには白い娘が残っている。
川端康成「眠れる美女」より


 ネクロフィリアをひとことで説明するのはむずかしい。まず、人格を剥ぎとり、屍体を完全にフェティッシュなものとみなし、欲望の対象とするフィジカルな行為。これは、絶対的に支配できるという思い込みによる屍体の猟奇事件としてしばしば表面化する。また、恋人をなくした者が、その死を受け容れられずに屍体をそばに置いて慈しむメンタルな行為。たとえばネクロ小説として名高い上田秋成「青頭巾」は、愛する美童の死を嘆く僧が、その屍体と生前のように戯れたりするのだが、腐りゆくのを惜しんで食べてしまうという話で、衆道から鬼へと化した狂僧という恐ろしい設定の中で、透き通った世界をつくりあげている。

 しかし、彼らは最初から死のイメージを愛していたわけではないと思う。はじめから「死のイメージ」という冷たく美しいものに執着した作家として、すぐに思い浮かぶのは
エドガー・アラン・ポオであるが、彼と同質のものを川端康成にも感じることがある。屍体といえば「死体紹介人」という作品が思い起こされるだろうが、私は「眠れる美女」に死のイメージを強く感じてしまう。

 「安心できるお客さま」である老人と添い寝するために差し出される娘は、いつも強い薬で前後不覚に眠らされている。眠る娘を眺めながら、「まるで生きているようだ」と呟く老人。つまり「眠れる美女」は、「体温を持った屍体」に他ならない。何もわからずに眠らされた肉体は、腐りもせずに底のない底に沈められている。肉欲を昇華することのない「安心できるお客さま」と、若く美しいが動かない「眠れる美女」。頓死した老人の冷たい屍体に寄り添う、体温を持った娘の屍体の図は、絡みあう肉体よりもずっとずっとエロティックではないだろうか。

 「眠れる美女」の延長線上にある短編「片腕」は、娘に片腕を一晩貸してもらった男の話だが、幻想的リアリズムのなかに、冷たく美しいフェティシズムが横たわっている。江口老人と眠ったふたりの娘は、生きていようと死んでいようと「眠れる美女」の女主人にとっては何ら変わりはない。ここに通う老人客は、特にネクロフィリアばかりではないだろう。ただ、体温を持った屍体を舐めまわす文章の冷ややかさに、この作家のネクロフィルへの憧憬をかいま見ることができるのだ。 


(1979年脱稿)


 この作品は、川端康成の意志で「片腕」と同じ単行本で発表された。
 「『眠れる美女』は、形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である」  by 三島由紀夫 

 
「眠れる美女」「山の音」という二つの川端作品を融合して作られた映画があるらしいが私は未見。
   (監督:横山博人 出演:原田芳雄 大西結花ほか)

 川端康成の
「美しさと哀しみと」も二度映画化されている。
   篠田正浩監督、八千草薫、加賀まりこ主演の邦画は未見。ジョイ・フルーリー監督、シャーロット・ランプリング、ミリアム・ルーセル主演のフランス映画は、美しく仕上がっていたが、原作よりもかなり官能的に感じられた。
戻る