VAMP NECROPHILIA ANOTHER SEXUALITY
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1989年、ニューヨーク・アンダーグラウンドの映画作家であり演劇家であるジャック・スミスがエイズのために亡くなった。その死によって、約20年間も作者本人の手で隠蔽されていた一つの作品が伝説から解き放たれた…!
Flaming Creatures

前衛芸術、カルト映画の傑作として、以前から日本でもタイトルだけは聞こえていたこの作品は、特にホモセクシュアルやトランスヴェスティズム(服装倒錯)精神を愛する者たちの間で、伝説の存在として語られてきた。日本では
「燃え上がる生物」という邦題がつけられていたが、実際は、ゲイの世界で使われるキャンプな隠語に由来するものであり、特定なイメージを想起させる仲間内でしか通じないような暗号のような言葉であるらしい。「FLAMING」には性的な含意があり、「燃え尽くすような」と訳するのが適当なのだろうが、この映画では、服装やふるまいなどの点で他を圧倒するような極端なクィーン(女装ゲイ)を表す言葉である。「CREATURES」は、ときに愛情と嫉妬をこめて使われるが、一般的なカテゴリーに分類することのできない特異な存在を指す。それ自体すでに常軌を逸した世界で、さらに突飛であるということは、たぐいまれな個性のあり方であり、この「FLAMING CREATURES」と称される特別な人々がそうありたいと願う夢がこめられている。
1963年ニューヨークにおいて、ケネス・アンガーアンディ・ウォーホールらの作品とならんで上映されたおりには、熱狂的な支持と同時に、多くの敵意と嫌悪にみちた攻撃を受け、警察にフィルムを押収されたという。そんな「異端」の声にも惹きつけられていた私は、この作品を「レズビアン&ゲイ・フィルム・フェスティバル」というイベントのおり、製作から30年後に見ることが出来た。

映画はモノクロで40分。ジャック・スミスと彼の仲間たちによって演じられた服装倒錯的でオリエンタルな幻影に彩られたパフォーマンスが、即興的で美しいカメラによって切り取られ、倒錯的なイメージが洪水となってあふれ出す。異形と豊饒、倦怠感と陶酔感、残酷さと歓喜にみちた営みのパワー。このめくるめく感覚をどう表現したらよいのだろう。


燃え上がる生物


ストーリーははじめから意味を持たないが、吸血鬼やマリリン・モンローなどをモチーフに選んだ
トランスヴェスタイト(服装倒錯者)たちによって演じられる、映画的記憶の、どこか懐かしく狂気じみた断片に、私は憧憬さえおぼえた。この作品を「排除すべき危険性がある」と指摘する団体などもまた、すでに甘美な毒やアナーキーな魅力におかされていたのかもしれない。

インパクトが強いのは映像だけではない。白々しくも脅迫的なラテン・アメリカのポップ・ソングと、「シナの夜」といった東洋趣味、ドイツのタンゴ・バンドのサウンド・トラック。そのものラテン・アメリカ文学の幻想的リアリズム、オリエンタリズムへの憧憬と侮蔑、ドイツ表現主義の融合といった音の印象。絡みつく女の叫び声…!これらが奇妙に絡み合って、映像のエキセントリックさを膨らませている。

このフィルム・フェスティバルでは、他に多種多様のセクシュアリティを描いた作品が何本も上映されていたが、私はこの「FLAMING CREATURES」と共に、フィリップ・R・フォードの
「VEGAS IN SPACE(ヴェガス・イン・スペース)」(アメリカ・1991・カラー・85分)という近未来スラップスティックというか、性倒錯SFコメディというか、やはりトランスヴェスティズムの魅力あふれる作品に惹きつけられた。

いわゆるトランスヴェスティズムは異性の衣服を用いるフェティシズムであり、当の異性装者の性的パートナーは、異性装をしていない場合が多いという。しかし、双方ともトランスヴェスティズムの魅力にとりつかれていることに違いはないのである。精神医学者、黒柳俊恭氏によれば、異性装者をパートナーに望む男性の多くが、調査の結果、「スカートの下のペニス」に興奮をおぼえるのだという。古今東西、男装の麗人を好むのはたいてい女性であり、ドラッグ・クィーンを恋人にするのはたいてい男性である。彼らは、異性装者にファンタジーをみているのであろうか。それとも異性のコスチュームの下に「自分」をみているのではないか。
「FLAMING CREATURES」にとりつかれた者たちは、メタモルフォーゼの夢、すなわち変身願望を刺激され、同時に、その特異なきらびやかさの向こうに、ナルシシズムの果てをみているのかもしれない。

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